bibliomanifesutus microscopium II

セメン樽に顕微鏡

8月歌舞伎座振り返り

歌舞伎座新開場十周年 八月納涼歌舞伎

今月は仁左衛門も玉三郎もいない歌舞伎座の舞台を定額制チケットで観た。
定額制チケットを取ったのは、三部編成のそれぞれを3階席から1度だけ観て解像度が低いまま飽き足らずにもう1回チケットを取るより2階席から繰り返し観たほうが満足度が高いのではないかと考えたから。実際には本当に繰り返して観たかったのは5つの演目のうち大江山酒呑童子だけだった。とはいえ金銭の元を取るの取らないのという思考は基本的に好まないので、ともあれ良い観劇になった。
回数としては第1部を5回、第2部を3回、第3部を1回。

各演目について

第1部『裸道中』

博打で身を持ち崩して赤貧洗うが如き暮らしをしている勝五郎と妻のみきの元にかつての恩人である清水の次郎長、その妻と子分たちの一行が一夜の宿を求めてやってくる。どこまでも純情で献身的な人々の間で与えようとして与えられ、尽くそうとして尽くされ、とどのつまりはみんな褌一丁襦袢一枚になってしまう。
今回この舞台を重ねて見るうちに、お芝居の舞台の上で起きていることをふっと身近に感じる瞬間があった。つまり、役者がそれぞれ覚えた台詞を言い決められた段取りを行うというのではなく、ひとりひとりが演じる役どころと二重写しになり交錯しあって複数のパラメータが動く場を作っているのを感じたのだ。それはもしかしたら、わたしがどの役者さんに対しても特段ファンであったり思い入れがあったりということがなかった (初回は彌十郎と七之助以外は誰もわからないくらいだった) のが却って幸いしたのかもしれない。

第1部『大江山酒呑童子』

源頼光、平井保昌と四天王と呼ばれる侍たちが童子姿の鬼に酒を飲ませて退治をする話。6月30日に観た巡業公演の『土蜘』でも同じ役どころの面々が化け物退治をしていた。平安ゴーストバスターズなのだろう。
童子姿の鬼が美しい。花道でお香が焚かれ香りと一緒にせり上がってくる。月を見上げて笑みを浮かべくるりと向き直る。酔い乱れると歩き方が変わる。人の手の触れない美しさをもったモノをどうして退治しなくてはならないのだろうと思ってしまう。
平安ゴーストバスターズの一人、平井保昌は和泉式部の二度目の夫となった人物だということにあとから気がついた。保昌の和泉式部への求愛もまたお芝居になりそうな物語であるらしい。データベースではにざさまはこの演目を孝夫さんであったころに、酒田公時役で2回、平井保昌役で1回演じている。これらの出演で酒呑童子はすべて17代目勘三郎。(わたくしの脳内の芝居小屋ではにざさまの平井保昌と玉さまの和泉式部による花盗人の物語がするすると編まれている)
踊りの演目で最後まで集中して観切ることができたのは初めてだった。5回めにようやく。

第2部『新門辰五郎』

科白劇という印象。幕末の勢力関係、特に水戸界隈の両義性が頭に入っていないといったい誰と誰がどう対立しているのかがわからないが、結局のところ辰五郎という人間の器量をひたすら推し量っていくのだなあと思って観た。子分の行動を厳しく律し自分にも厳しくしながら義理ある人々の利害の相反をひとりでぐっと飲み込むが事態は一個人が飲み込める大きさを超えていく。連呼される「ニッポンの宝」という表現は口にした瞬間から上滑りして虚しいものになっていく。辰五郎が多少とも孤独から救われる幕切れでよかったと思う。
芸者の八重菊が実に素敵だった。京言葉で本音を見せず一歩も引かず客をあしらう感じ。絵馬屋の勇五郎が初めは実に鬱陶しい老害に見えたが3回目には嘘のつけない人物なのだと感じられた。トリックスター山井実久、3回目にはふっと怖さが漂ってよかった。

第2部『団子売』

初回は東桟敷席のステージに近いところから観て、後見の仕事ぶりを併せて堪能できて楽しかった。お面はどうやって固定するのだろうと思ったら裏に突起があって口で咥えるのだそうだ (SNSで教えていただいた)。ひょっとこのお面の後ろで役者さんがひょっとこづらしていたらおもしろい、と思ったけれどしっかり固定するなら歯を使うか唇を巻き込むかするだろうからひょっとこづらにはならないよなあ、など。

第3部『新・水滸伝』

中国の物語『水滸伝』は子供の頃に読んで大好きだった。出てくる人物みんな酒を飲むのも喧嘩をするのも笑っちゃうようなスケール感、それなのにひとりひとりが実は魔星の生まれ変わりであり運命の力によって梁山泊に会し、頂点を極めたかと思いきややはり運命の力で滅びてゆく。全巻読み直す時間はないと思って岩波少年文庫版を再読して臨んだが、失敗だった。これは「新」水滸伝であってあの『水滸伝』ではない。今回の演目を楽しむ機能は今のところわたくしには備わっていなかった。