bibliomanifesutus microscopium II

セメン樽に顕微鏡

The End of キリギリス一家

事前に完全な文章には落とさず、メモも見ずに話したので、忘れないうちに書き残しておく。できるだけ、話したそのまま。

本日は、このような悪天候の中、また週末の早朝という貴重なお時間を割いておいでくださいまして、ほんとうにありがとうございます。
父、____は、19__年_月_日、今は中国の大連で生まれ、幼少時に数年間を日本の内地で過ごした後、少年時代を大連で過ごしました。旅順高校在学中に終戦となり、帰国して、少年時代からの願いであった法律を学んで高校と大学を終えました。
その後、会社員となり、旧姓____と出会い、結婚し、娘が生まれ、娘が少し大きくなると、美術館、音楽会、バレエやお芝居に連れて行き、一緒に科学の実験をし、数学の問題を解き、書物は好きなだけ与えてくれ、どういうわけか綾取りとお手玉まで教えてくれました。
子供の頃に始まった父との会話は、ギリシャ哲学から漢文、美術や音楽、科学、それから駄洒落や言葉遊びにまで及び、大人になっても、ついこの冬までずっと続いていました。
俺はラディカルな無神論者だ、葬式なんか簡単でいい、ただモーツアルトのレクイエムを流してくれといつも言っておりましたが、あるとき「ところでお父様、レクイエムは宗教曲ではないでしょうか」と言いましたら実に嫌な顔をしておりました。今日はベーム指揮のレクイエムを流して、子供の頃からの約束をなんとか果たせたかと思っております。
無神論者といいながらも、父にとって法の精神と学問の力は、常に信じ服するものだったことに私は気がついていました。
わたしが「こういう人と結婚しようと思います」と話したとき父は、「日本国憲法第24条に『結婚は両性の合意によってのみ成立する』とある。従ってこれは君の権利である、おめでとう」と言いました。こんな言葉をこっそり用意していたのかその場で口をついて出たのか、ほんとうに父らしいと思ったものです。
学ぶことが好きで、生きることを楽しみ、権威を嫌い、一過性の流行を嫌い、一見とっつきにくい人のようでいて、ひとたび打ち解けると相手に献身的に振る舞うところもあったと思います。
わたしにとっては、いつも知的好奇心の道の先を行く存在であり、母の病に際しては、母のために一緒に闘う同志でもありました。
身体の許す限り、楽をするよりも自由と自立を選ぶ生き方を貫いてきましたが、先月の半ばに心不全の発作を起こし、入院した直後には普通に意識があり話をしていたのですが、数日後から眠ったまま目が覚めなくなり、昨日、_月__日午前4時8分に息を引き取りました。
生前の父を支え、助け、愛してくださった皆様には、この場を借りまして、心からお礼申し上げます。
そしてできればこれからも、皆様の心のどこかに、よく飲み、よく笑い、よく理屈をこねた父を、置いていただけましたら、娘としてこれほど嬉しいことはありません。
ほんとうにありがとうございました。